英 語 学 習 を め ぐ る“ショート・ショート”五題

はじめに
 本来、“ショート・ショート”とは、短編小説よりもさらに短く、しかも意外なアイデアを盛った話、機知を利かした話のことですが、これから書く話は小説ではないし、意外なアイデアでもない。英語学習に関する一言アドバイスの意味で、要は、短いけれどその分チョッピリ刺激強く、が狙いです。

その1 英語法律文書の書き方
よくいわれることですが、良い英文を起草するには良い和文が前提です。しかし、良い和文が書ける人は稀です。ただし、ここでいう良い悪いは英語から見ての話であって、文学的な美文とか名文のことではありません。英語から見れば、川端康成も志賀直哉も太宰治も皆悪文になってしまうかもしれません。我々の世界でいう“良い和文”とは、簡潔で意味のよく通る、論理的に透明(clear)な文章のことです。現在、そういう理想の文章の対極にあるのが特許明細書ではないかというのが私の感想です。貧しい文章から英文を起草するのは大変で、先ず言葉払いが絶対に必要です。「払い」は「祓い」のことで、和文に潜む悪霊を祓うことを意味します。良い英文かどうかは、言葉祓いがうまくできているかどうかにかかっています。(当ブログ2008年3月号に「翻訳は意訳なり」で同じことをもう少し詳しく書いています)

今、明細書に論理的明晰さが必要といいましたが、それは換言すると、切り込みの深さ、鋭さのことで、それが欠けているのは抽象能力・概念化能力がないということです。最近若い人はまともな文章が書けないといわれますが、それは具体的事象を概念化する力がないということです。幼稚ともいえます。だからだらだらとした文章になってしまうのです。西欧のロースクールには、法律文書はご婦人のスカートのごとくあれ、というアドバイスがあるそうです。人の興味を引くだけの短さと、「本体」をカバーできるだけの長さになっていなければならない、という意味です。ただ、その「短さ」と「長さ」の使い分けが難しいところです。

ここでは思い切った言葉祓いを説きたいのですが、この言葉祓いが特許実務界ではタブーになっています。原文と英語の字面の完全一致の悪弊を破らない限り、明細書を含め日本人の英語法律文書は永久に世界に通用しないだろうと思います。紙面の都合で二例だけあげてみます。

【例1】マーク・ピーターセン著『日本人の英語』(岩波新書)より、
Drag out an antenna, pinching it between one’s finger.
この例はいろんなところで既に引用されています。日本語の原文はありませんが、著者は“アンテナを指でつまんで引き延ばしてください。”というところであろうと、推測しています。著者がこの英文を奇妙と感じたのは子供のときだといいます。著者は書くなら”Pull out the antenna.”で十分だと述べています。なお、著者も指摘していますように、between one’s fingerのfingerが単数形なのも、antennaに不定冠詞が付いているのもおかしいといっています。基本的なミスです。

もし原文が著者の推測通りだとすると、その原文が問題ありということになりますが、この原文を問題ありと見る人はそうはいないのではないでしょうか。英語という眼鏡を掛けて始めて問題と感じるはずです。となると、世の中には、“俺は所長だ、英語はできんが、文章だけはチェックする”と豪語している事務所の所長や会社の部長さんがおりますが問題です。こんなところに特許実務界に存在する“権力と権威の混同”を見る思いです。要はこの文章、“指でつまんで”は不要で、“アンテナを引き延ばしてください”で十分です。明細書を含め日本人の文章にはこの種の無駄な言葉が多過ぎます。

【例2】「外国で購入された特許品を修理して転売した場合、特許権の消尽になるかが法律上問題である。」
 国際消尽論を解説した文章の一節です。私なら以下のような英語にします。
 Whether the refurbishment of a patented product first sold abroad constitutes a permissible repair or an impermissible reconstruction will amount to be a serious legal issue.
原文に「修理して」とありますがこの「修理」は、「被告主張するところの修理」の意味ですのでそのまま”repair”とは訳せません。「修理」が”repair”であることは誰でも知っていると思いますが、そこに落とし穴があります。特許文書ではTOEIC900点でも危険といわれる所以です。原文にある「消尽」が英文にはありませんが、first soldが代用しています。「消尽(exhaustion)」という抽象的ないい方は避けて、permissible repair or impermissible reconstructionと具体的に書いています。これが、“翻訳とは意訳”の意味です。「修理」を「再生(refurbishment)」とすればすっきりします。「再生」は「修理」と「生産」の上位概念です。原文でも“修理”と引用符をつけて特殊な意味であることを暗示しておいてもいいでしょう。

【例2】は、知財一般に関する文書の英文起草の難しさを示しています。貧しい英語法律文書が外国にばらまかれて対外的に日本の特許実務者の品位と価値を落としていると思っています。そういう現実をもっと真剣に考える必要がありますが、企業も事務所も目前の損得や納期に追われてそれどころではありません。つくづく人材不足を痛感します。

その2  “留学で人生を棒に振る日本人”
栄陽子著「留学で人生を棒に振る日本人」(扶桑社出版新書)は、大いに考えさせられ本です。この本に登場する日本の親たちは、外国にさえ行けば英語が上手くなれると錯覚している日本人を代表しています。この種の留学感覚は、特許実務界にもあります。外国(特に米国)へ行くことが一つの箔付けになっています。米国に行って急に英語読解力(会話力ではない)が増したなどという話は聞いたことがありませんし、そういう実績を見せてもらったこともありません。国会議員にもよくある外国留学という偽看板に騙される人が多いということです。中小企業の社長によくあるのですが、社員にアメリカ帰りがおりますから、彼に(または、彼女に)英文明細書を書かせますとか、チェックさせます、と平然という人がいるのは驚きです。著者の栄さんも力説しているように、大事なことは、「英語を学ぶ」ではなく、「英語で学ぶ」です。「何を」が大事で、そのためには外国に行く前からすくなくとも確実な英語基礎力をもっていなければなりません。

その場合の英語力は、世の親達が考えている会話力ではなく、議論のできる英語力、文化が語れる英語力であり、中心は読解力になります。その読解力、外国に行っただけでは養成できません。私自身が見てきた帰国後優れた読解力を示した人は、実は、外国に行く前からそういう実力をもっていたのです。要は、本の読めない者は外国に行っても無駄です。特許実務界にも物見遊山気分で外国の特許事務所を回ってきただけで仕事が取れると考えている人が多いのですが、そういう人達は著者栄さんのいう世の親達のレベルです。

その3  英検1級問題に挑戦
平成6年の晩秋でしたが、当時担当していた特許英語教室の受講生の一人が帰り際に、平成6年度秋期の英検一級検定試験問題について質問にやってきました。提示されたのが次に示す問題で、本人の言によれば英語の域を超えているので対処できなかったのだそうです。流石、英検一級だけのことはあるな、というのが実感でした。
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【問題】次の文章の内下線部分を英文40語程度で要約せよ。
【注】ここでは下線が出ませんので【      】で囲んでおきます。

チャーマーズ・ジョンソンは、何を、だれが、どれだけ生産するかといった決定を市場メカニズムに委ねるシステムを英米型の特徴として市場合理的システムを呼び、経済発展のためには積極的に市場に介入することを辞さない計画合理型の日本型システムと対照をなすものとして示したのである。

 【それではなぜ、英米とくにアメリカでこのようなシステムが発展したのであろうか。
おそらく、アメリカが建国の当初から移民国家であり、風俗、習慣や宗教を異にする人々によって構成されており、成文法を中心とするルールによる統治が不可欠であり、日本の行政指導のようなシステムは不公平と受け取られ、機能し得なかったからであろう。】

翌日、こんなところでどうだろうと次の訳例を彼女にファックスしたのが私の記録ファイアルに残っています。
【訳例】America was founded with a variety of immigrants differing in customs, habits, and religions, and therefore the State required written statutory controls over the nation. Under such circumstances the Japanese-type administrative control system was thought to be unfit because of a possible inequality and possibly resulting administrative malfunctions.

その4  高度な内容の英文とは
私は今まで再三英語の講読が大事、といってきましたが、講読する内容も大事です。確かに手当たり次第の乱読も悪くはありませんが、それとは別に、頭を鍛える意味で、また、文化の深層を探求する意味で、高度な英語論文や記事も読まなければなりません。特許の世界でいえば、知財学者の論文や判例になります。今、手許に若い同業者から読むよう勧められた”Ex Post Claiming”という学者の論文がありますが、58頁あります。冒頭はこうなっています。

“The claims of a patent are often compared to the fences of real property. But unlike real property, these fences can be moved. I call this “ex post claiming.”
(特許のクレームは、よく不動産の垣根にたとえられる。しかし、不動産と違って、クレームという垣根は動かすことができる。私(著者)はこれを“事後的クレームの創設”と呼んでいる)

この論文は米国での事情についての論評ですが、日本でも最近、特許前あるいは特許後のクレームの補正や訂正が安易に考えられています。この論文はそうした風潮への警告と読めます。補正だの、訂正だのと特許実務家はいとも簡単にいいますが、“Where has the inventor gone?(発明者は一体どこへ行ってしまったのか)”ということです。出願の時点で発明は確定し、特定されていたのでなかったか、という疑問です。ここで思い出すのは、西欧に昔からある伝統的な幽霊物語”The Vanishing Hitchhikers(消えたヒッチハイカー)”のことです。特許実務界には、”The Vanishing Inventors(消えた発明者)”というミステリーが存在します。いずれにしても、こうした風潮が、着手金欲しさの事件屋の横行につながらなければよいのですが。

本テーマ“高度な英文”に戻りますと、東大教授の斉藤教授は、近著『これが正しい!英語学習法』(ちくまプリマー新書)のまえがきで “行くに径(コミチ)に由らず”という「論語」の一節を引用されています。これは大道を歩めということで、大道とは現在の“楽しく英語を学ぶ”風潮に対する警告で、その骨子はしっかりした講読力の涵養だと説いておられます。斉藤教授が最初にあげられている問題を借用します。
Pablo Picasso’s artistic career demonstrates how uniqueness and originality emerge as a result of long and arduous efforts made primarily within a pre-established framework of tradition and convention.

この英文は大学一年生向けに斉藤教授が作られた英文随筆の一部で、学生達が頭を悩ませながら読むことを想定して書いたと説明されています。擬人法の訳がポイントのようです。

斉藤教授の言葉にある“楽しく英語を学ぶ”は、現在の小学校の英語や街の英会話教室の雰囲気がまさにそれです。確かに、“楽しさ”がなくては長続きしませんが、我々の求める“楽しさ”は小学校や会話教室で見るあのにぎやかな“楽しさ”ではありません。意味が違います。

そこでもうちょっと高度な英文に当たることにします。手許に『高等英文解釈研究』という本があります。著者は成田成寿旧東京教育大学教授で昭和26年(1951) 9月1日研究社初版発行のものです。定価はなんと180円。しかし、大学新卒者の初任給が17,000円程度であった時代の180円です。内容は十九世紀から現代までの英米の随筆を主に集めてあります。著者は、「序」で次ぎのように提言されています。

“…英文の場合では、自分で英文を書くことも必要である。書いてみると英文の妙味なり、特色なりがわかる。英文解釈をする場合にも、あることを、英語ではこういうということを考えながら読むと、英文の特色もわかるし、同時に英文を書く助けになろう。英作文にしろ、会話にしろ、なんでも、まず英文解釈で考え、摂取することが土台にならなければならぬはずである。(以下略)”

では具体的にどんな英文が高等なのか、101ある問題文の第一問は次のようです。
It would not, I think, be doing justice to the feelings which are uppermost in many of our hearts if we passed to the business of the day without taking notice of the fresh gap which has been made in our ranks by the untimely death of Mr. Alfred Lyttelton. It is a loss of which I hardly trust myself to speak, for apart from ties of relationship, there had subsisted between us for thirty-three years a close friendship and affection which no political differences were ever allowed to loosen or even to affect. Nor can I better described it than by saying that he, perhaps, of all men of this generation came nearest to the mould and ideal of manhood which every English father would like to see his on aspire to, and if possible to attain.
【解説】時代は1913年。イギリスの一国会議員の随想の一節で、33年来の政友であったリトルトン氏の時ならぬ死(untimely death)に遭遇したときの寂しさを書いています。議員席にぽっかりあいた席 (fresh gap)を無視してその日の日程をこなす(do the business of the day) としたら、心の最上位にある感情を正当にあつかうことにならないのではないか(仮定法になっている)、と書いています。以下は略しますが、この英文は著者が“高等英文”と銘を打つ通り日本人にはむつかしく感じます。格別難解な言葉が使われているわけではないのにむつかしいのは何故なのか。書き物は思想または感情の表現ですが、欧米人の思想の着想過程や把握の仕方、あるいは、感情の感受の仕方が日本人とは異なっており、それがそのまま表現されるからだと思います。上の”doing justice to the feelings which are uppermost in many of our hearts…”などは、むつかしい言葉は一つもないのに理解しにくい表現です。意訳が必要となります。こういう文章を理解するには単なる英語力だけでは追いつかず、深い洞察力や理解能力が必要になります。英米に留学すれば毎日こういう英文に聴覚的にも、視覚的にも遭遇するわけですから、留学には暗黙の適格性が要求されることが分かります。英語週刊誌”TIME”が読めないのも同じ理由からで、”TIME”に限らず身近な論文や判例についても同じことがいえます。分からないと面白くありませんから長続きしません。これが、英文が読めないという状態です。思うに、英文の講読力は、英語力だけではなく総合能力ということです。

その5 若い人に贈る言葉
この『高等英文解釈研究』という本は、昭和30年代初頭、会社への通勤の京都・大阪の国電(現JR)の中で読むことにしていたものですが、難解で、一問を理解するのに片道では片付かず、帰途、すなわち往復を要したことがざらでした。こんなことを書くと気障な自慢話に聞こえるかもしれませんが、私など旧世代にとっては、青春時代のこうした“教養主義”は当たり前で特別のことではなかったと思います。タイムやニューズウイークのような英文週刊誌を読む者や、電車の中では必ず英字新聞を読むという会社の同僚も多くいました。それが今は携帯電話の時代です。一日中携帯電話を眺めていて力がつくのだろうかと心配になります。知力、体力がある若い時はいいにしても、年とともにやってくる知力・体力の衰えにどう対処するのでしょうか。これを時代の差で片付けていいものかどうか疑問に思っています。私が今もたずさわっている特許実務という仕事を思いますと、あの頃の努力は無駄ではなかったことを痛感します。このことから、若い諸君にいえることは、
Heaven helps those who helped themselves in their youth.
ということになります。意味するところは、「若い時の努力は必ず報われる」です。この一句は“天は自ら助くる者を助く(Heaven helps those who help themselves.)”をもじったもので、whoの動詞helpが過去形になっている点と、in their youth(若い時に)という副詞句がついている点に注目ください。

最近つくづく思うことは、人生の勝負は、第一期は40才台に、第二期は60才台に、そして第三期は70才台にくるということです。その時に天が助けてくれるためには”helped yourselves in your youth”です。今、“勝負”といいましたが、それは知力だけでなく、体力も大いに関係します。若い時の体力の浪費・消耗のつけは、知力の衰えより数段早く出ます。知力がまだまだあるのに体力がもたないという例を数多くみます。要するに、人生は長いようでもすぐに終末期はやってくるのです。
                               (弁理士 木村進一)
                     「特許評論」は登録商標(第4556242号)です。
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# by skimura21kyoto | 2008-12-25 15:28  

二次的著作物-小説『推定無罪』の場合

二次的著作物とは、たとえば、Scott Tutowの小説『Presumed Innocent (推定無罪)』の場合、文芸春秋社の翻訳(上田公子訳)と映画館で上映された映画と、そのビデオ・テープが二次的著作物になります。これらの二次的著作物も著作権法により保護されます。映画や翻訳に限らず編曲、変形(例,絵画を彫刻にした場合その逆、写真を絵画にする等)、脚色(例、原作をNHK大河ドラマのために脚色した場合)、その他翻案することにより新たな創作性が加わったものであれば該当します(著2-1-11)。ここで一つ問題があります。ある小説を映画化するには脚色して脚本化する必要がありますが、その脚本が原作の二次的著作物なのは分かりますが、その脚本に基づいて作られた映画はどちらの二次的著作物なのでしょうか。三次的著作物というのはあるのでしょうか。正解は、脚本も映画も原作の二次的著作物です。二次的という言葉が誤解を招いています。英語では”derivative works”ですから、訳せば「派生的著作物」となります。「派生的」で理解すべきです。

二次的著作物は原著作物とは別の著作物として保護されます。原著作者は、二次的著作物の利用権を専有します(著28) 。著作権法第2条3項によれば、ビデオ・テープ、ビデオ・カセット等のビデオ・ソフトは映画の著作物です。ややこしいのが映画の著作権です。映画は、制作者、演出家,監督、撮影者、美術担当者、俳優、作曲家等多数の人間の共同作品です。これらにすべて著作権を認めると利用には著作権全員の許諾を要するため利用ができなくなるおそれがあります。そこで著作権法第16条は映画の全体的形成に創作的に寄与した者を著作者として、同29条1項で映画製作者に著作権者の地位を認めています。これは、著作者は、原始的には著作権者であるという原則の例外になります。本来なら、著作者であれば当然著作権と著作者人格権とがある筈ですですが、映画では著作者人格権はあっても金儲けができる著作財産権はありません。しかも人格権の方も氏名表示権と同一性保持権はありますが、公表権はありません。(著18-2)。この一見不合理な扱いも映画の円滑な利用のためといわれています。
【注】制作者と製作者とは異なります。映画の製作者は映画会社であり,映画の制作者は,いわゆる“プロデューサー”で著作権法上では映画形成に寄与した一人に過ぎず、上記したように著作権(著作財産権)は認められていない。

【英語一言アドバイス】「二次的著作物」とあるからと、"secondary works"としないこと。直訳の弊害です。本文でも言及したようにこの日本語自体が不明確です。中山信弘著「著作権法」の第1章第6節「二次的著作物」の箇所で、著者の中山教授は「二次的という用語よりも、英語訳として用いられている派生的(derivative)という用語の方が的確と思われるが、ここでは二次的著作物という法律上の用語に従う」と書いておられる。和文英訳に当たっては、日本語自体を疑ってかかる必要があります。書かれている日本語が完璧という例はほとんどありません。日本人の英語がpoorだと批判されますが、責任の大半は原文の書き手にあるように思います。現場で言うと喧嘩になるのであまり言いませんが。
                                  (弁理士 木村進一)
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# by skimura21kyoto | 2008-11-26 19:19  

私の英語史異変―英語の授業が突然なくなる日

 英語の授業が、ある日突然なくなる、なんてことは今では考えられない。しかし、昭和18年(1943)実際にあった話である。妹尾かっぱという人が書いた自伝『少年H』(講談社青い鳥文庫)の中にもそのことが触れられているが、少年Hの言をまつまでもなく、私もその“被害”を受けた一人である。今、“被害”と言ったが、これは現代の感覚で言ったもので、あの時、本当に被害と感じたか、喜びと感じたかは定かではない。しかし、当時は、天皇陛下万歳・日本帝国万歳の世相で、本当に米英を鬼畜と思っていたから、父兄から英語の授業禁止に反対の声があがるはずはなかった。もし反対などすれば忽ち非国民という恐ろしいレッテルを貼られ、子供を含め一家はいじめにあったと思う。

 禁止の理由は、英語は敵性言語ということであったが、それでも海軍兵学校では英語の授業がカリキュラムに組み込まれて公然と行われていたというから、流石とは思う。が、惜しむらくは、その海軍が、真珠湾の奇襲 (surprise attack) を敢行して無謀とも思える太平洋戦争の先鋒をつとめたのは何故なのか。英語教育が生きていたとは思えない。もし英語を通じて米英の文化や歴史を理解していたら鬼畜米英などという考えは出てこなかっただろうし、さらに英語による発信能力を身につけていたら、日本の良さを彼らに分からせることができたのではなかったかと思う。なんのための英語学習だったのかと言いたくなる。幕末の攘夷論は昭和になって鬼畜米英のスローガンに変わっただけで根は同じである。だとすれば、日米暗雲の垂れ込めた昭和の時代に、自らは幕臣でありながら、倒幕を標榜する薩長同盟を支持し、さらには江戸城無血明け渡しを成功させた勝海舟が現れなかったのは日本の不幸であった。英語授業の禁止など誰も覚えていない程小さな事実かもしれないが、根底にあるそういう攘夷思想が、英語ブームになっている今日でも日本人の心中には潜在しており、それが日本人の思考を狭め、世界に飛躍する力を弱めていると思えてならない。

 話を戻すと、英語授業禁止に関する『少年H』(前掲書下巻10頁)の描写はこうなっている。少年Hは当時神戸二中(現県立兵庫高校)に在学していた。
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 学校の廊下にも海軍兵学校や陸軍士官学校への受験を勧めるポスターが貼ってあった。その横に、“鬼畜米英・撃ちてしやまん”の大きなポスターも並んでいた。
「米英の音楽も禁止になったけど、“敵の言葉を中学で教えているのは理屈にあわん”ということで、とうとう英語の授業がなくなるらしいぞ」
その噂のもとは、丸山四郎だった。彼の父親が県庁に勤めているので、手に入れた情報だという。(中略)丸山情報は新聞にも載っていない未発表ニュースだったので、風のように学校中に伝わった。
 それが事実かどうかを確かめるためには、英語の松本正信先生に聞くしかない。(中略)
 「英語の授業がなくなるというのは本当ですか?」と口々に聞いた。
 「噂を信じて、慌てて英語の教科書をゴミ箱に捨てた奴はおらんやろうな」
といって、みんなを笑わせたあと、松本先生は真顔になり、こういった。
 「そんな噂があるようようだが、まだ決まったことやないから動揺せんと落ち着いて勉強するんやぞ。“敵を知る”という言葉があるが、相手の言葉も練習する必要がある。今、僕が心配しているのは、敵国性文化ということで何でも破棄してしまう風習や。こういう状態の中では、いつまで英語の授業が続けられるかはわからんけど、ぼくは君たちに最後まで英語を教えてやりたいと思っている。いまの授業は、一時間でも貴重な時間やと思って勉強してほしい。ええなあ」
みんな「ハイ」と声を揃えていいながら、なんだかジーンとしていた。松本先生がすごく大事なことを、危険をおかしていってくれたのだと思った。  (以下略)
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 少年Hの松本先生の「今、僕が心配しているのは、敵国性文化ということで何でも破棄してしまう風習や」という一句には心からの共感を覚える。松本先生が心配しているこの“風習”こそ今も残る攘夷論である。

 ところで、英語授業禁止に際しどんな手続が踏まれたのか、また、そのことで校長の説明や、特別のセレモニーはあったか。なにもなかった。当時の日本では、敵性語の英語を禁止するのは当たり前のことで、セレモニーなどするまでもないというのが国民感情だったと思う。英語授業禁止に関して調べてみると、禁止は法律による絶対的で全国的なものではなかったようである。地方によっては、また都会でもミッション系の学校では依然英語の授業はやっていたという記録がある。ただ、英語は声をひそめて、という状況だったようだ。政府は、英語授業の中止については各学校の“自主性”に任すということだった。しかし、“自主性”には種々の選択肢があるはずだが、それはなかったと思う。自主的判断であれば、“敵性語なればこそ英語の授業を強化すべし”、という意見も可能だがそんなこと提唱しようものなら忽ち非国民のレッテルを貼られてしまう。当時、国防婦人会というのが小学校の学区毎にあって、頭の固いご夫人数名が連れ立って問題の家に文句を言いに行くという風習があった。11月3日の明治節の日に国旗掲揚をしなかったというだけで、その婦人会から直々の文句を言われたという家庭があった。密告のようなこともあったらしい。国防婦人会も隣組制度も言論統制の道具ではなかったかと思う。要するに、少年Hが、「松本先生が、すごく大事なことを、危険をおかしていってくれたのだと思った。」と言っているように、確かに迫害の危険はあった。とにかく、お上の言うことには逆らえなかったのである。

 英語授業禁止とは別に、当時、英語の授業が困難になっていたのには別の理由があった。先ず、先生(特に若い先生)が戦地に駆り出されていなくなったこと。当時の男子校では女性の英語の先生は考えられなかった。第二は紙不足。授業に必要な教科書が作れなくなった。全教科、新聞紙大の白紙にガリ版印刷したものを今でいうB5やA4位の大きさに自分で切ってそれを帳面風に綴じ込んで使っていた。切り取りや綴じ込みは結構難しく、灯火管制下の薄暗い電灯のもとで母親に手伝ってもらった記憶がある。なにしろ、“欲しがりません勝つまでは!”の時代であるから、物資不足に文句は言えなかった。

 という次第で中学に入って英語を習い出したものの、肝心の先生がいなくなり、代用として老齢の国語の先生が英語を担当した。そこで習ったのが、”Mt. Fuji”。正しくは“マウント・フジ”と発音するが、その先生は“ミット・フジ”と教えてくれた。ひどい話であるが、そのひどい授業も英語全面禁止で長くは続かなかった。しかし、そのつけは戦後にやってきた。昭和20年(1945)戦争が終わるや英語の授業は復活し、復員してきた正真正銘の英語の先生に習うようになったが、真っ先に槍玉に上がったのが、“ミット・フジ”であった。“なんだその英語は!”、とひどく叱られた。当時世間は、鬼畜米英から一転して米英様々ムードになり、“英語知らざれば人にあらず”的な風潮であった。NHKの平川唯一によるラジオ英会話講座のテーマソング“カムカムエブリボディ”が町中に流れていた。つい数日前まで、英語は敵国語、英語を喋る者は非国民と言っておきながら、一日違いで“英語知らざれば人にあらず”である。今でも、“カムカムエブリボディ”のメロディを聞くと腹が立つ。昭和一桁生まれは英語に弱い、と悪口言われるのは、最も大切な中学時代の英語授業禁止が原因である。

 上で引用した『少年H』の松本先生の言は立派だが、それとは対照的な言葉を私は覚えている。“お前たち、英語を知らんでもその内に日本語でワシントンやニューヨークでコーヒーが注文できるようになる”という一人の老先生の言葉である。その言を疑わなかったのは事実である。日本は神国で、いつか神風が吹いて必ず勝つと思い込んでいたからである。それが当時の日本国民の総意だったと思う。まだ、原爆はおろか本土空爆など予想もできなかった昭和18年の頃である。

 あれから60有余年。あの“ミット・フジ”が私の英語の原点だと思うと、当時のひたむきさが思い出されて懐かしい。現在は、違う意味で、ワシントンやニューヨークで日本語でコーヒーが注文できるようになった。思えば、良き時代である。その“ミット・フジ”少年が、10月21日、ワシントンD.C.で、英語で「特許法第104条の3-特許権侵害事件における無効の抗弁」を英語でプレゼンテーションするのだから、人生なにが起こるか分からない。要は、人生、粘りが大切である。
                       (弁理士 木村進一)
               「特許評論」は登録商標(第4556242号)です。
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# by skimura21kyoto | 2008-10-28 13:17  

私の英書講読-英書多読の必要性

はじめに
最近出た猪口孝著「英語は道具力」(西村書店)に、「はっきり言おう。日本は『英語失敗国家』だ」という副題がついています。ショッキングな副題につられて購入してみましたが、書いてあることには全く同感です。要は、このグローバル化の時代に、英語ができなくては仕事にならないという趣旨です。誠にその通りで、私も「日本は『英語失敗国家』」説に同感です。昔から、日本のインテリは英語が読めない、という批判は聞いていました。こういう場合、“日本のインテリは英語が読めない、ただし、知財専門家は例外”、とはならないところが悲しいところ。しかし、それを言うと、必ず反発を招き、その場の雰囲気が悪くなるので親睦の席などでは言わないようにしていますが、内心はいつもそう思っています。ブログでもそれらしいことは再三書いていますが、どうも知財専門家に限らずインテリ連中には蛙の面になんとか、のように思えます。

9月初め関西特許研究会(KTK)恒例の一泊夏季セミナーが京都であったのですが、講演は知財高裁の飯村敏明判事のお話しで大変有益でした。よくまあ飯村判事のご出馬を願ったものと、川上佳子幹事長の力量に感服しますが、それはそれとして飯村判事の話の中に、米国での特許訴訟の話があり、その中で米国の学説では「法と経済」が主流とあること、さらに、判決でのロジックの重要性や、判決の実効性(プラティカル性)を説いておられました。私は、知財事件を扱う上での大きなヒントを得たと思っています。私が得たヒントとは、高裁事件さらには最高裁事件を成功させるためのロジックは、特許実務界のバイブルとも言われる”吉藤概説”だけでは賄えないということの確認でした。どうしても「法と経済」、さらには「法と社会」にいたる感覚が必要だということです。率直に言えば、弁理士試験の延長線にいるだけでは駄目だということです(私は、この状態を弁理士試験の後遺症と呼んでいます)。その「法と経済」や「法と社会」の感覚を磨くためには、どうしても英書を読まなければなりません。残念ながら日本にはその種の本も論文もありません。そういう学者がいないからです。日本では昔ながらの解釈法学が主流です。私見として言わせてもらえば、この場合のロジックとは、法律事件の解決には幾つもの「正しい答え」がある、その内のどの答えが現状にプラティカルであるかを説得できる力のことです。どうしても、経済や社会の現状分析が必要となります。そのためには分析できるだけの知識が必要です。結局は、教養の幅、見識の高さに帰します。現在の知財専門家にそれだけの資質があるでしょうか。知財専門家は知財のスペシャリストであると同時に、ゼネラリストでなければならないということです。となると、日本の大学教育の在り方が問題になってきます。

という次第で、今日は英書講読のすすめとして資料を提供します。全文の解説は紙数の関係で省略します。経済学で重要な概念である”market failure (市場の失敗) ”という言葉がでてくるように(段落(7))、飯村判事の言われる「法と経済」の一端がうかがえる論考です。”市場の失敗”が出てくると、”外部性”、”公共財”、”競争性”、”排他性”という概念が絡んできます。この英文は、以前、京都の某大学の英書講読で使い、その他でもシリーズ形式の実務講習会でも使った一部です。ひっくり返らずに頭から読んで理解するようにしてください。英文の直訳は、受験英語の後遺症です。なお、文中(sic)とあるのは、「原文のまま」の意味で、段落符号(1)~(8)は講義の便のためにつけたものです。
Patent Policy
(1) The United States functions for the most part as a “free market economy.” Most people believe that vigorous competition among firms both promotes consumer freedom to choose goods and services in an open marketplace, and fosters opportunity for businesses by ensuring a level playing field among competitors. One consequence of our free market economy is that, absent government intervention, we are ordinarily all free to copy the ideas of others without paying for them and without fear of any legal liability. If someone discovers that calcium channel blockers help treat hypertension, you too can use a calcium channel blockers to lower your blood pressure and can market those drugs to others by advertising their ability to accomplish this beneficial result.
(2) It is plain to see that the patent system provides an exception from this fundamental principle of open competition. The grant of a patent allows a single firm to exclude all others from operating an internet-based auction house or selling calcium channel blockers, depriving consumers and competitors of the benefits of competition. Why, then, does the U.S. government operate a patent system? Supporters of the patent system have generally appealed to instrumental rationales and, to a lesser extent, the natural rights of individuals to enjoy a proprietary interest in their inventions. These justifications are tempered by the recognition that individuals have sometimes abused the patent system, as well as the observation that no conclusive demonstration proves the patent achieves its laudable goals.
(3) Instrumental rationales are justifications for legal rules that are practical in nature. They purport to explain the law by demonstrating that it achieves concrete real world benefits. The patent system is often explained by reference to a number of public policies that are instrumental in character. Generally speaking, these theories view the patent system-and its key feature of exclusivity-as providing incentives for individuals to engage in desirable behavior.
(4) Proponents of this view reason that absent a patent system, inventions could easily be duplicated or exploited by free riders, who would have incurred no cost to develop and perfect the technology involved, and who could thus undersell the original inventor. The resulting inability of inventors to capitalize on their inventions would lead to an environment where too few inventions are made. On this logic, many commentators have argued that the patent system is necessary to encourage individuals to engage in inventive activity.
(5) It is profitable to delve into the “incentive theory” of patent law a bit further. Like other goods, inventions may be analyzed in terms of two economic characteristics. The first is whether the benefits of the goods are “excludable.” That is true where it is feasible for one person - usually the owner of the good (sic) - to deny other access to it, so that no one can use it without his permission. A good, and delicious example is a bottle of wine. Whoever holds the bottle, controls the wine. If Claude has possession of the wine, he can prevent or exclude his friend Dominique from drinking it. Now contrast the example of a clever new idea for a restaurant. If Claude comes up with the concept of a restaurant where all the dishes are made with garlic, and where the servers are dressed as snails, he does not have any practical way to prevent Dominique from using the same idea in a competitive restaurant across town or across the street. Absent some legal rule that he can invoke against Dominique, there is no inherent “excludability” in the case of the restaurant concept.
(6) A second important trait is whether consumption of a given good (sic) is rivalrous. If one person’s use of the good necessarily diminishes the ability of another to benefit from that same good, the good is said to be a rival good. Return to our bottle of wine. If Claude guzzles the wine, there is none left for Dominique to enjoy. For every sip one takes, there is less for the other. The wine is plainly a rival good. On the other hand, consider something like pleasing parkway scenery. No matter how many times Claude drives by and enjoys the view, it remains there for Dominique to enjoy as well. Because all may profit from the parkway scenery without diminishing the benefits of any others, we would characterize it as a non-rival good.
(7) Goods differ in their degrees of excludability and rivalrousness. Those that are fully nonexcludable and nonrival are termed public goods. The production of public goods is subjected to market failure, for their nonexcludable and nonrival traits suggest that they will be underproduced relative to social need. This follows because potential producers of public goods are uncertain whether they will benefit from the good sufficiently to justify their labors. To put the matter bluntly, they might conclude that there is no point in producing something if they have no assurance of being paid for their effort. No private party will plant beautiful parkway scenery at his or her own expense because there is no way to recoup the costs involved and make a profit. (That, incidentally is why parkway beautification tends to be undertaken by the government, if it is done at all.) The consequence is that individuals will therefore tend to produce goods with greater excludability and rivalrousness-like wine-and to underproduce public goods like parkway scenery.
(8) The production of desirable public goods is thus said to present a problem of collective action. While society as a whole usually favors the development of certain public goods, ranging from military citizen may lack sufficient incentives to produce them. Left uncorrected, this would lead to suboptimal social outcomes.           -以下略-
(“Principle of Patent Law” by Roger Schechter and John Thomas)
あとがき
手許にある”Intellectual Property-Moral, Legal, and International Dilemmas”, edited by Adam D. Moore(出版社:Rowman & Littlefield Publishers, Inc.)。という本は論文を集めたものですが、目次の中から食欲をそそりそうなタイトルを拾ってみます。
Part 1 The Moral Foundation of Intellectual Property
Toward a Lockean Theory of Intellectual Property
【注】Lockean Theoryとは、ジョン・ロックの学説のことです。 他は略
Part 2 Intellectual Property Issues and the Law
The Philosophy of Intellectual Property
A Non-Posnerian Law and Economics
【注】Posnerianとは、法と経済を説いたRichard Posner教授(シカゴ大学)の学説のこと。ここではNon-とありますからPosnerianTheoryそのままではありませんが、反ポスネリアンにしろ、非ポスネリアンにしろ、「法と経済」論であることには間違いありません。
The TRIPS Agreement: Imperialistic, Outdated, and Overprotective  他は略
Part 3 Information and Digital Technology
Why Software Should be Free
The Virtues of Software Ownership
National and International Copyright Liability for Electronic System Operators
The Economy of Ideas: Everything You Know about Intellectual Property Is Wrong 他は略
【解 説】
 段落(7)の”market failure”について
 Market failure (市場の失敗)とは、市場本来の機能を果たさない現象のことで、1970年代の資本主義諸国で出てきた経済学上の概念です。これに対し当時の社会主義国(中国やソ連)では「計画と政府の失敗」という概念で認識されていました。上記英文での「市場の失敗」は特許に限られていますが、意味は一般財と同じです。この段落の意味は、「商品のもつ排他性(excludability)と競争性(rivalrousness)は商品ごとで違う。排他性も競争性もないのが公共財(public goods)で、公共財はそれ故に社会的ニーズ(social needs)に対し供給過少になる(underproduced)。それは、公共財では労働対価に見合うだけの収益が保証されないから引き受ける企業はないからである。例えば、いかに景観のいいパークウエイ(parkway)でも、収益の見込みがなければ企業は開発に手をつけようとしない。政府にやってもらうしかない。企業が目指すのは排他性と競争性のある商品である。」段落(7)では、この状況を“The production of public goods is subjected to market failure…“と表現しています。
 なお、この「市場の失敗」については公認会計士の二次試験に出題されたことが記録されています。それほど大事な概念です。
 問題 「“市場の失敗”はどのような場合に生じるか。具体例をあげて説明し、それぞれにおける価格づけ、もしくは料金決定のあり方について論じよ。」

【注】本稿は関西特許研究会の研究誌『KTKニュース』10月号に掲載のものを本ブログ用に編集したものです。
                                         (弁理士 木村進一)
                            「特許評論」は登録商標(第4556242号)です。
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# by skimura21kyoto | 2008-09-26 12:53  

愚劣な戦術的クレーム補正-日本版 “The Doctrine of Prosecution Laches”

はじめに
特許出願をするということは、出願の時点で発明は特定され確定しているはずだから後で直すということは、本来はおかしい。特に、特許権確定後に侵害と目される物件(イ号という)、たとえば、展示会で競合メーカーが出品している製品を見て、急遽特許請求の範囲(クレーム)を直すというのは言語道断という気がします。しかし、昔から出願中のものなら、時期的・内容的制限がありますが補正は当然のこととして受取られ、実行されています。特許権成立後も訂正審判によって訂正は可能です。特許実務家は、クレームの補正や訂正を戦術の一つとも考えています。分割出願も補正の一種か、などという議論もありますが、いずれにしても出願時の発明を変える点では同じです。今更、補正について疑義を抱くなどもってのほか、といわれるかもしれませんが、特許制度の根幹に関わる問題なので考えてみようと思います。どうも日本の特許実務家はこの辺の認識が足りないように思うからです。根本の思考が欠けている、という感じです。

なお、特許法では「訂正」と「補正」を使い分けしています。特許後は「訂正」といい、出願中は「補正」と言います。米国には、日本のような訂正審判制度はありませんが、用語は、特許後については、たとえば、a certificate of correctionや、reissue(再発行特許)の定義である “a procedure for correcting a patent”の一文からも明らかなように correct を使っています。語法的には、correct は誤記を訂正する程度の意味であるのに対し、amendとreviseは共に“よくする (improve)”の意味を内包しています(Webster)。こういう点を深く考えることなく目先の動向だけでクレームを直す特許実務者のやり方を、私は弁理士試験の後遺症と呼んでいます。後遺症といえば、もうひとつ受験英語の後遺症もあってこの二つの後遺症があいまって特許実務界を汚染していると考えています。

確かに、補正を認める理由はあります。なにしろ工場や研究所で誕生した生の具象的発明を、抽象化し概念化して思想として言葉で表現するのですから容易ではありません。まして、先願主義のもとでは出願は急がなければならなりません。さらにそのように出願は完了しても、審査の結果先行技術が発見されれば、なんとかそれをかわしたい心理が働きます。当然です。しかし、厳密に考えると、先行技術が発見されれば本来は“参りました”で終わりのはずです。発明者ではない代理人が面子をかけて必死になること自体おかしな話です。英語の”Filing of a patent application(特許出願する)” のfilingとは、発明 (alleged invention)を審査してもらうのに便利な形式に書類化して、特許庁に預けて審査(先行技術調査)をして貰うという手続のことです。先行技術引例により拒絶されたからといって代理人は責任を感じる必要はありません。責任など感じるから、補正だの訂正だのと騒がなければならなくなるのです。ただ、審査官の側に理解不足や認識の間違いなどがあって、その誤解を解く意味で意見書を出す機会が与えられるのは“発明者の権利”として当然だと思いますが。そこで発明者は釈明 (justify) し、または“謙虚に”発明の範囲を減縮する (to narrow the scope of a claim) ことは当然です。特許請求の範囲の「減縮」というのは、多数あると思われる実施の態様の内の幾つかの独占を諦めることです。代理人の仕事は、とかく言葉不足や言葉過剰になり勝ちの発明者を“教育的”に補助することです。

吉藤、中山、紋谷その他高名な諸先生の説くところによれば、複雑な発明を最初から完璧に説明することを発明者に望むのは酷である、という温情主義が補正を認める理由になっています。しかし、米国の数々の判例を読んでいますと、日本人の補正・訂正に対する態度に疑問を感じてしまいます。米国では出願時点における発明者の発明に対する認識度が出発点です。米国の発明者も全部が全部実直な技術者、いわゆる善男・善女 (church-goers) ではありません。サブマリン特許にみるように狡猾でしたたかで、貪欲ですから特許庁と対立すますし、裁判所も苦慮しています。35 U.S.C.§112の明細書の記載要件はそのためにあるといえます。記載要件 (description requirement) 一つをとっても深く長い歴史を感じます。

あくまでも私見ですが、日本の特許制度は、法文上だけの世界、根のない表層だけの世界です。明細書起草者は、最初から先々補正がしやすいように幅を持たせて書こうとしますからふやけた水増し文章が多くなるのです。冒頭で述べたように補正と訂正とは違います。いずれにしても、出願時点において発明の実体を把握していない証拠です。発明者と明細書起草者(必ずしも代理人ではない)は遊離しています。これには企業側に責任があります。企業は、“広い権利、広い権利”と、根拠もなく言葉だけで片付けようとします。根底には責任回避の心理 (risk-aversive consciousness) が働いています。出願が完了すると、発明者は出願とは縁が切れて、発明は専ら法務部門(代理人も含む)のいわゆる“戦術家”の占有になってしまいます。企業の発明者には“己の発明”という強い意識はありません。稀に、職務発明の補償金をめぐって裁判を起こして食い下がっている発明者がいますが、あれを“発明者魂”というべきかどうか、少し動機が違うように思います。

ではどうすべきか。私は、クレーム解釈に際しては、法廷に発明者を召喚すべきだと思います。あるいは、法廷外でもいいから米国流のdeposition (証言録取)をやる必要があります。嘘がつけない宣誓の下に真の発明はなんであるかを、発明者に証言させるべきでしょう。補正にしても訂正にしても、書面だけで終わっているのはおかしい。時間がかかるだの、費用がかかるだの、そんなことは問題ではないだろう、と言いたくなります。

再度言えば、参考書が言う、先願主義のもと出願を急ぐあまり完璧な明細書を望むのが酷、というのは甘やかしで、日本の特許制度は、所詮、“言霊の世界”、換言すれば、実体から遊離した“言葉遊び (verbatim) ”の世界です。弁理士試験の後遺症と言った意味はそこにあります。
【注】「言霊」とは、たとえば、“神風”という言葉を創ったら、本当に大風が吹いて急場で助けてくれると信じること。特許用語はほとんどが言霊的呪文といえます。

米国には記載要件(§112)に関して次のような判例の一節がありますが、実は、似た表現をもった判例や審決例 (in re cases)は他にも沢山あります。
“ Although the applicant does not have to describe exactly the subject matter claimed, …the description must clearly allow persons of ordinary skill in the art to recognize that he or she invented what is claimed. The test for sufficiency of support in a parent application is whether the disclosure of the application relied upon “reasonably conveys to the artisan that the inventor had possession at that time of the later claimed subject matter.” (Vas-Cath v. Mahurkar (Fed.Cir. 1991)
【訳】出願人(注、米国では発明者のこと)はクレームされた主題を正確に記述する必要はないが、(中略)記述から当業者がクレームされている発明は確かに発明者によって発明されたと、認識できるものでなくてはならない。(補正された首題 (later claimed subject matter) が、親出願 (parent application) に十分裏づけ(support) されているかどうかは、補正クレームが依拠する明細書の開示から判断して、発明者が、親出願の時点で、その補正した新クレームを掌握していたことが 当業者に“無理なく (reasonably)” 理解できるかどうかにかかっている。

この判決の要旨は、日本でいう「認識限度論」です。「認識限度論」とは、発明者が認識した発明の限度以上に技術的範囲を定めてはならない、とする考え方で、均等論隆盛の折から最近影が薄くなっています。しかし、本当はこの考え方が正しいと思っています。発明者が認識もしない技術的範囲を、代理人とはいえ他人が、“勝手に”、侵害品と目されるイ号に合うように急遽クレームを変更することになんの疑念も抱かないこと自体おかしい、と兼ね兼ね思っていたら、平成20年4月24日、この点に関連した最高裁の判決が出ました。“ほら見ろ、だから言わんこっちゃない”、という感じです。

最高裁 平成20年4月24日判決(平成18年(受)1772事件)
日本版”The Doctrine of Prosecution Laches”
米国には”The Doctrine of Prosecution Laches (出願手続懈怠の原則)”という衡平法の観点から確立した法理があります。昨年世界の特許実務界を慌てさせた米国特許庁のルール改正もこの原則のもとに定立されたものでしたが、行き過ぎとの司法判断を受け現在は頓挫しています。米国ではサブマリン特許の原因ともなった継続出願の乱用防止が狙いでした。他方、日本の特許法第104条の3第2項は、この原則の日本版と理解できます。日本の実務界では、“時機に後れた攻撃・防御方法”という表現が使われています。私はこれを“故意の遅延”と解して、”intentional delay”と英訳しています。以下、この最高裁の判決の概要をご紹介します。

事 実
事案は、特許権に基づく製造販売禁止等請求事件(第1審は大阪地裁)で、最高裁の結論は、棄却。
(1) 本件特許権
上告人(第一審の原告)は、特許権(特許第2139927号)の特許権者である。本件特許は、平成5年4月21日に出願がされ、平成11年1月22日に特許となった。

(2) 被上告人1(被告1)は、自動刃曲加工システム(本件製品)を製造、販売し、被上告人2(被告2)は、これを被告1から購入して販売していた。

(3) 第1審における経緯
原告は、平成13年9月10日、本件特許権に基づき、被告に対し、本件製品の製造、販売の差止め及び損害賠償を求める本件訴訟を提起した。原告は、当初、本件製品はクレーム1の技術的範囲に属する旨主張し、被告らは、同年12月7日の第2回口頭弁論期日において、クレーム1に係る特許には明らかな無効理由があり、本件特許権に基づく差止め及び損害賠償の請求は権利の濫用 (a patent misuse)に当たる旨主張した。被告1は、平成15 (2003) 年7月25日に無効審判を請求したところ平成16 (2004) 年1月30日にクレーム1は無効と審決された。

原告は、平成16年2月6日の第18回口頭弁論期日になって、本件製品は本件クレーム5のうちクレーム1を引用する部分に係るクレーム5の技術的範囲にも属する旨を追加的に主張した。被告らは、上記主張は時機に後れた攻撃防御方法として却下されるべきである旨主張するととともに、16年3月15日の第19回口頭弁論期日において、クレーム5に係る特許についても明らかな無効理由がある旨主張した。

平成16年10月21日、本件製品がクレーム1及びクレーム5の技術的範囲に属するか否かについて判断することなく、クレーム1に係る特許及びクレーム5に係る特許には旧特許法123条1項1号の無効理由が存在することが明らかであり、本件特許権に基づく差止め及び損害賠償の請求は権利の濫用に当たり許されないとして、原告の請求をいずれも棄却する旨の判決を言い渡した。
【注】最高裁平成10年(オ)第364号同12年4月11日第三小法廷判決・民集54巻4号1368頁参照

(4) 控訴審 (大阪)における経緯
原告は、平成16年11月2日、第1審判決に対して控訴するとともに、平成17年1月21日クレーム5の請求の範囲の減縮を目的として訂正審判(第1回訂正審判)を請求した(訂正2005-39011号事件)。
被告らは、同年2月1日の第1回口頭弁論期日において、クレーム1に係る特許及びクレーム5に係る特許には明らかな無効理由が存在する旨主張したが、同年4月1日に改正特許法が施行されて特許法104条の3の規定が本件に適用されるようになったことに伴い、被告らの無効主張は、同日以降、同条1項の規定に基づく主張として取り扱われた。

原告は、平成17年4月11日、上記訂正審判請求を取り下げ、同日付け審判請求書により、クレーム5について、2回目の訂正審判を請求した(訂正2005-39061号事件)。原告は、クレーム1の特許に係る無効が確定したことから、同年5月31日の第3回口頭弁論期日において、本件製品がクレーム1の技術的範囲に属する旨の主張を撤回した。これにより、本件訴訟における審理の対象はクレーム5に係る特許のみになった。

上記第2回目訂正審判は、平成17年11月25日に訂正審判の請求は成り立たないと審決された。原告は第2回訂正審判請求を同年12月22日に取り下げた。控訴審は、平成18年1月20日に口頭弁論を終結したところ、原告は、同年4月18日付け審判請求書により、3度目の訂正審判請求をした(訂正2006-39057号事件)。

同控訴審は、同年5月31日に原告の控訴をいずれも棄却する旨の判決を言い渡した。原判決は、本件製品がクレーム5の技術的範囲に属するか否かについて判断することなく、クレーム5に係る特許は、特許法29条2項に違反してされたものであり、同法123条1項1号の無効理由が存在することが明らかであって、特許無効審判により無効にされるべきものと認められるから、原告は被告らに対して本件特許権を行使できない(特許法104条の3第1項)旨判示した。

(5) 原判決言渡し後の経過
原告は、平成18年6月16日上告した。同時に同月26日、第3回の訂正審判請求を取り下げ、第4回目の訂正審判請求をした(訂正2006-39109号事件)。原告は、同年7月7日、上記第4回訂正審判請求を取り下げ、同日クレーム5の請求の範囲の減縮及び明瞭でない記載の釈明を目的として第5回目の訂正審判請求を行った(訂正2006-39113号事件)(以下、本件訂正審判請求という)。審判官は、審理の結果、同年8月29日、本件明細書の訂正許可の審決をして確定した(以下、本件訂正審決という)。訂正審決は、クレーム5のうちクレーム1を引用していた部分を訂正するという内容(以下、本件訂正という)を含むものであって、本件訂正に関しては特許請求の範囲の減縮に当たる。

最高裁の意見
本件の上告受理申立て理由書の提出期間内に本件訂正審決が確定し、クレーム5に係る特許請求の範囲が減縮されたという本件の事実関係の下では、原判決の基礎となった行政処分が後の行政処分により変更されたものとして、民訴法338条1項8号に規定する再審事由があるといえるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある(民訴法325条2項)と思われる。

(1) 控訴審は、本件訂正前のクレーム5に係る特許には特許法29条2項違反の無効理由が存在する旨の判断をして、被告らの同法104条の3第1項の規定に基づく主張を認め、原告の請求を棄却したものであり、原判決においては、本件訂正後の特許請求の範囲を前提とする本件特許に係る無効理由の存否について具体的な検討がされているわけではない。そして、本件訂正審決が確定したことにより、本件特許は、当初から本件訂正後の特許請求の範囲により特許査定がされたものとみなされるところ(特許法128条)、前記のとおり本件訂正は特許請求の範囲の減縮に当たるものであるから、これにより上記無効理由が解消されている可能性がないとはいえず、上記無効理由が解消されるとともに、本件訂正後の特許請求の範囲を前提として本件製品がその技術的範囲に属すると認められるときは、原告の請求を容れることができるものと考えられる。そうすると、本件については、民訴法338条1項8号所定の再審事由が存するものと解される余地があるというべきである。
【注】民訴法338条1項8号 
「判決の基礎となった民事若しくは刑事の判決その他の裁判又は行政処分が後の裁判又は行政処分により変更されたこと。」

(2) しかしながら、仮に再審事由が存するとしても、以下に述べるとおり、本件において原告が、本件訂正審決が確定したことを理由に原審の判断を争うことは、原告と被告らとの間の本件特許権の侵害に係る紛争の解決を不当に遅延させるものであり、特許法104条の3の規定の趣旨に照らして許されないものというべきである。

(a) 特許法104条の3第1項の規定が特許権侵害訴訟において、当該特許が特許無効審判により無効にされるべきものと認められることを特許権の行使を妨げる事由と定め、当該特許権に対する「無効主張」をするのに特許無効審判手続による無効審決の確定を待つことを要しないものとしているのは、特許権の侵害に係る紛争をできる限り特許権侵害訴訟の手続内で解決すること、しかも迅速に解決することを図ったものと解される。そして、同条2項の規定が、同条1項の規定による攻撃防御方法が審理を不当に遅延させることを目的として提出されたものと認められるときは、裁判所はこれを却下することができるとしているのは、無効主張について審理、判断することによって訴訟遅延が生ずることを防ぐためであると解される。このような同条2項の規定の趣旨に照らすと、無効主張のみならず、無効主張を否定し、又は覆す対抗主張も却下の対象となり、特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正を理由とする無効主張に対する対抗主張も、審理を不当に遅延させることを目的として提出されたものと認められれば、却下されることになるというべきである。

(b) 上記した事実関係の概要によると、
①被告らは、既に第1審において、クレーム5に係る特許について無効主張をしており、平成16 (2004) 年10月21日に言い渡された第1審判決は、特許法第104条の3の規定の施行前であったが、最高裁平成12年4月11日判決(筆者注、キルビー判決)に従い、上記無効主張を採用して原告の請求をいずれも棄却したこと、
②原告は、平成16年11月2日に上記第1審判決に対して控訴を提起し、平成17年1月21日にクレーム5について請求範囲の減縮を目的とする訂正審判請求をしたが、同年4月11日にこれを取り下げ、同日再度クレーム5について訂正審判請求をしたこと、
③上記再度の訂正審判請求については、同年11月25日に同請求は成り立たない旨の審決がされるや原告は同年12月22日に同請求を取り下げたこと、
④そこで、原審は平成18年1月20日に口頭弁論を終結したが、原告は同年4月18日に3度目の訂正審判請求をしたこと、
⑤原審は同年5月31日に原告の控訴をいずれも棄却したが、その理由は、第1審判決と同じく被告らの上記無効主張を採用するものであったこと、
⑥原告は、同年6月16日に上告をしたが、その後3度目の訂正審判請求を取り下げて4度目の訂正審判請求をし、さらに4度目の訂正審判請求を取り下げて5度目の訂正審判請求をしたのが本件訂正審判請求であること、以上の事実が明らかである。

(c)そうすると、原告は、第1審においても、被告らの無効主張に対して対抗主張を提出することができたのであり、上記特許法104条の3の規定の趣旨に照らすと、少なくとも第1審判決によって上記無効主張が採用された後の原審の審理においては、特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正を理由とするものを含めて早期に対抗主張を提出すべきであったと解される。そして、本件訂正審決の内容や原告が1年以上に及ぶ原審の審理期間中に2度にわたって訂正審判請求とその取下げを繰り返したことにかんがみると、原告が本件訂正審判請求に係る対抗主張を原審の口頭弁論終結前に提出しなかったことを正当化する理由は何ら見いだすことができない。したがって、原告が、本件訂正審決が確定したことを理由に原審の判断を争うことは、原審の審理中にそれも早期に提出すべきであった対抗主張を原判決言渡し後に提出するに等しく、原告と被告らとの間の本件特許権の侵害に係る紛争の解決を不当に遅延させるものといわざるを得ず、上記特許法第104条の3の規定の趣旨に照らしてこれを許すことはできない。
以上によれば、原判決には所論の違法はなく、論旨は採用することができない。よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

【参考】 訂正審判の経緯
(1) 平成16年11月2日、第1審判決に対して大阪高等裁判所に控訴するとともに、平成17年1月21日クレーム5の請求の範囲の減縮を目的として訂正審判(第1回訂正審判)を請求した(訂正2005-39011号事件)。
(2) 原告は、平成17年4月11日、上記訂正審判請求を取り下げ、同日付け審判請求書により、クレーム5について、2回目の訂正審判を請求した(訂正2005-39061号事件)。
(3) 第2回目訂正審判は、平成17年11月25日に訂正審判の請求は成り立たないと審決されたため原告は第2回訂正審判請求を同年12月22日に取り下げた。控訴審は、平成18年1月20日に口頭弁論を終結したところ、原告は、同年4月18日に3度目の訂正審判請求をした(訂正2006-39057号事件)。
(4) 原告は、平成18年6月16日上告した。同時に同月26日、第3回の訂正審判請求を取り下げ、第4回目の訂正審判請求をした(訂正2006-39109号事件)。
(5) 原告は、18年7月7日、上記第4回訂正審判請求を取り下げ、同日クレーム5の請求の範囲の減縮及び明瞭でない記載の釈明を目的として第5回目の訂正審判請求を行った(訂正2006-39113号事件)。
                              (弁理士 木村進一)
                           「特許評論」は登録商標(第4556242号)です。
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# by skimura21kyoto | 2008-08-26 16:37